2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

2017年8月28日 (月)

佐屋街道 佐屋

愛知県愛西市佐屋町は旧佐屋街道(佐屋路)の宿場町ですが、
残念ながら今はその面影は何もありません。
佐屋街道もブログを開設したすぐに歩いたところで、
ここも芭蕉ゆかりの地といえば・・・ゆかりの地。
さすがにこの暑さで通し歩きは止めましたが ^^;
芭蕉「水鶏塚」と、わずかな宿場の名残りを訪ねてみました。

名鉄「日比野駅」から南に少し歩き、
旧街道に出て西に向かうとすぐに内佐屋交差点。

Saya0

交差点を南へ折れるとある「佐屋海道址」碑です。

ここから佐屋宿までは約1kmほど、
須依の交差点で右折すると旧佐屋宿です。

Saya01

集落の途中にある「水鶏塚(くいなづか)」への道標。
先を急ぐと見落としてしまいそうですが、
もちろんここは立ち寄ります ^^;

Saya02

細い道を100mほど行くとある「水鶏塚」。
少々落ち葉があって荒れてはいますが ><;

Saya03

奥に「水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊 芭蕉翁」の碑があります。
元禄7年(1694)5月、江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中に、
佐屋の門人、山田庄佐衛門邸に泊まったときに詠んだ句。

旧街道に戻って

Saya04

さらに西へと行き、次の交差点に出る手前に

Saya05

「左 さや舟場道」の石柱があります。
この辺りが元舟場所前で旅籠屋があったところ。

この後ろは民家のブロック塀ですが
そこには”きこくの生垣”の案内板があります。

Saya06

案内によるとこの生垣は
「尾張名所図絵」にも描かれているもので

Saya07

”いこく”とはカラタチのことだそうです。

Saya08

道を挟んだ北側には「佐屋代官所址」がありますが、
代官制度が出来たとき、
その最初の代官所がここ「佐屋代官所」であったとも。

Saya09

さらに交差点を挟んで小さな公園がありますが、
その横を西(見える右側)に行けば木曽川へ。
南(左側)の道を行けば弥富から桑名へ続きます。

その公園の南端にあるのが「佐屋三里之渡址」碑。

Saya10

昔はここまでが川だったため、ここが佐屋街道の終点。
ここから桑名までは水路3里の船旅でした。

「佐屋街道」(佐屋路、東海道佐屋廻りとも)。
熱田の宮宿から岩塚、番場、神守宿(津島市)を通って、
佐屋宿までの陸路6里と、桑名までの水路3里の合わせて9里。
東海道の海上7里(28km)より2里ほど長い道程ですが、
荒天による船止めや、船酔いを避けた旅人で賑ったという・・・。

2016年8月13日 (土)

宮田宿本陣 旧新井家住宅

伊那から木祖へと向かう途中でしたが、
広域農道(中央アルプス花の道)を走っていて、
目に入った看板に思わず立ち寄りました。

長野県上伊那郡宮田村新田にある
「旧新井家住宅(宮田宿本陣)」です。

Miyata01

「宮田村ふれあい広場」の東にあるその建物。

Miyata02

南側にある門と

Miyata03

こちらは母屋の入口ですが、
開館中は無料で内部を見学できます。

Miyata04

その母屋の内部
入口を入ると馬屋のある土間があり

Miyata05

入口側には「しもでい」と、
奥に「おもてざしき」と呼ばれる部屋

Miyata06

次の間は囲炉裏のある「だいどころ」と、
奥に「なかのへや」とあります。

裏戸を開けてでると

Miyata07

なまこかべの土蔵があります。

Miyata08

裏庭からの母屋。
板葺き屋根の上に置かれた石が特徴的な建物ですが

Miyata09

裏門でしょうか?

水路には赤い橋が架かっています。

Miyata10

母屋に続くのは主客が泊まる本陣(座敷棟)。
内部でつながっていますが裏側から回り込みます ^^;

Miyata11

座敷棟前に引かれた水路

Miyata12

Miyata13

座敷棟の玄関は
母屋から渡り廊下で結ばれています。

Miyata14

正面

江戸時代の宿場町のほぼ中央にあった建物を、
創建当時の姿に移築復元したもの。
母屋が18世紀後半、座敷棟が19世紀初めに
建てられたものと推定され、伊那街道では唯一、
江戸時代の姿のままに残された本陣建物という。

Miyata15

玄関から見る座敷

京極高知(たかとも)が整備したといわれる伊那街道。
飯田から6番目になる宮田宿は、
伊那街道の中でも重要な宿場であった・・・と。

Miyata16

新井家は本陣と、母屋の部分がお茶屋を兼ね、
さらに、一時期は問屋も兼ねていたという・・・。
(宮田村HPから抜粋)

思わぬところで思わぬ建物、
復元とはいえ、伊那街道に現存した
貴重な本陣建物が見学できました。   9日

2015年1月19日 (月)

明治村・呉服座

愛知県犬山市にある博物館「明治村」。
ここではガイドさんの案内で時間限定ですが、
非公開の建物内部が見学できます。
少し日が経ちましたがそのガイドに初めて参加したのが、
4丁目49番地にある「呉服座(重文)」でした。

江戸時代以来伝統建築の名残を留める芝居小屋です。

Gofukuza01

明治初年大阪府池田市に建てられ
当時は「戎座」と呼ばれていましたが、
明治25年(1892)に西本町猪名川の川岸に移され、
名称も「呉服座」と改められます。

Gofukuza02

地方巡業の歌舞伎をはじめ、
壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等、
様々なものが演じられました。

Gofukuza04

桝席に渡された桟を歩いて客席へ。

Gofukuza05

客席は平場(平土間)と呼ばれ、
桝席に区切られている中央の低い部分と、
桟敷と呼ばれる廻りの部分からなっています。

Gofukuza06

客席後部

Gofukuza07

舞台の袖から奈落へと降ります。

ちょうど廻り舞台の下、
今は見学用の照明が点いていますが、
当時、灯りはすべてローソクだったとか。

Gofukuza08

廻り舞台は円周に沿って取り付けられた
車と中心軸とで支えられています。

Gofukuza09

廻り舞台の下から
袖に付けられた花道の下を行くと

Gofukuza10

入口近くには楽屋があり、
そこから花道の出入り口に出ました。

普通、楽屋は舞台の裏手等に設けられていますが、
この呉服座では入口土間の上にあります。

Gofukuza11

大きな音を立てて揚幕が引かれると、
舞台の花道へ。

Gofukuza12

ここは七三(舞台へ三分、揚幕へ七分)の位置で、
役者はここで一度立ち止まり、
芝居を演じたり、見得(みえ)を切ったりするところ。

Gofukuza13

客席は全体に斜めになっています。

芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であつたことが
この建物の役割でもあると同時に、
マスコミの重要な役割も果たしていたという・・・
(主要部は明治村説明文より引用)。

非公開建物が公開される建物ガイド、
まずは「呉服座(重文)」の見学体験でした。

2015年1月16日 (金)

おかげ横丁の屋根瓦

今年も恒例の新春詣でに出かけた伊勢神宮内宮、
そのあと立ち寄った「おかげ横丁」です。

数年前に一度載せたことがある建物の屋根瓦。
この日は久しぶりにその鬼瓦や飾り瓦、
軒瓦を見上げて横丁の散策でした ^^;

Ise01

「おかげ横丁」
ここではやはり猫です ^^;

Ise02

可愛い猫もいれば

   Ise03

こんな猫もいます ^^

Ise04

人目につかないところにも”まねき猫”

Ise05

こちらは屋根にいる飾り瓦の猫

飾り瓦といえば

Ise06

こんなのも

Ise07

こちらは傑作の飾り瓦!
左から、見るさる、聞くさる、言うさる!
”良く見て、良く聞いて、良く話してね”、だそうです^^;

その軒瓦に書かれているいる文字は
” (思え) ば 涙 が 先 に 立 つ ”
道中伊勢音頭”別れの唄”の一節 です。

Ise08

Ise09

そしてこちらは正調伊勢音頭(さわぎ)から、
 ”(わしが国さは お伊勢が遠い)
  お 伊 勢 恋 し や ま い り た や ” ^^
他にもたくさんの伊勢音頭の一節があります。

飾り瓦は軒先から屋根上に。

Ise10

リス?

Ise11

ハト

Ise12

これは本物 ><;

そして鬼瓦です。

Ise13

「徳力富三郎版画館」の鬼瓦は”扇子に徳”ですが、
「おかげ横丁」の初期の建物には、
徳力氏がデザインした鬼瓦と軒先瓦が使われています。
その鬼瓦は・・・

Ise14

波に鯛

Ise15

宝船

Ise16

打出の小槌に

Ise17

福助など。

それ以外にも珍しい鬼瓦もあります。

Ise18

伊勢エビ?

Ise19

鯛を抱えた七福神のえべっさん、
なぜか右手に竿はありません ^^;

まだまだ載せたい屋根瓦はありますが、
それはまたの機会に・・・。

Ise20

そして「おかげ座」です。
平成13年、天照大神などのルーツを紹介する施設
「おかげ座 神話の館」として生まれ変わっています。

懐かしい「おかげ横丁」の屋根瓦でしたが、
横丁だけではなく、おはらい町の建物でも
楽しい屋根瓦が楽しめます。

2014年10月 7日 (火)

竹中半兵衛ゆかりの地

豊臣秀吉の参謀として活躍した「竹中重治(通称は半兵衛)」。
軍師「黒田官兵衛」とともに”二兵衛”と称される。
そのゆかりの地が岐阜県の垂井町岩手にあります。

半兵衛と父、重元は垂井町岩手の菩提山に城を築き、
以後ここを居城としました。

Tarui01

Tarui02

半兵衛没後に嫡男の重門が菩提山城を廃して
その麓に陣屋を構えます。

Tarui03

樽井町岩手にある「竹中家陣屋跡」と
正門の櫓門(やぐらもん)。

Tarui04

正門横にある「竹中半兵衛像」

秀吉に仕える前は美濃の斎藤義龍・龍興に仕え、
織田信長の美濃侵攻に対しては
その知略により何度も切り抜けています。

Tarui05

陣屋跡から北にある竹中氏菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」。

”美濃に半兵衛あり”といわれるもその後垂井町に隠棲。
信長の侵攻により斎藤氏が滅亡後、
織田信長から命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の説得に、
信長ではなく秀吉の家臣となります。

Tarui06

「鐘楼」

秀吉の軍師となった半兵衛は播磨攻めの折、
黒田官兵衛と知り合いますが、
それが二人の最初で最後の参陣となります。

Tarui07

「本堂」

天正7年(1579)
播磨三木城を包囲中に病に倒れ京都で療養するも、
すでに自らの死期が近いことを悟ります。

Tarui08

竹中半兵衛重治の墓(左)と父重元の墓

武士ならば戦場で死にたいと三木の秀吉本陣に戻り、
陣中で病没、享年36歳でした。

Tarui09

墓所は陣地のあった兵庫県三木市にありますが、
ここ以外にも数カ所存在するようです。

Tarui10


後年は秀吉に迎えられ参謀として活躍しましたが、
私的には美濃の国主「斎藤義龍・龍興」に仕えたころの、
数々の逸話を持つ竹中半兵衛の印象が強くあります。

そんな竹中半兵衛ゆかりの地を
まだ彼岸花の咲き残るころに訪ねました。

2013年12月15日 (日)

芭蕉 綿弓塚

「石光寺」の寒ぼたんを見たあとは、
いつものように「當麻寺・奥の院」の冬牡丹を見に行きます。
ところが今年はちょっと様子が違いました。
まだ全然咲いていなくて咲くのは12月下旬ごろという ><;

さて、このあとどうするか?困りました。
雨がぱらつくなか帰ってもよかったんですが、
せっかくここまで来ていながらそれでは能がないと、
立寄ったのはここです。

Watayumi01

もう随分と前に歩いた竹内街道(たけのうちかいどう)。
そのときに少しふれましたが、
奈良県側の竹内集落にある芭蕉ゆかりの「綿弓塚」です。

Watayumi02

街道沿いには古民家を改装した休憩所があり、
奥は整備された小公園(綿弓広場)になっています。

Watayumi03

     Watayumi04

その綿弓広場に建つ「綿弓塚」。

貞享元年(1684)秋、
門人の千里(ちり)を伴った旅の「野ざらし紀行」で,
千里の旧里でもあるこの地に滞在しています。

そのときに詠んだ句
”わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく”を記念して、
芭蕉没後150年の文化6年(1809)に建てられました。
右面にその句が刻まれています。

Watayumi05

少し離れて建つ千里の句碑
”深川や芭蕉を富士に預け行く 千里” (野ざらし紀行)。

休憩所内です。

Watayumi06

入口から順に ^^

Watayumi07

Watayumi08

中央には竹内街道沿いの見どころを紹介する
写真が張られたパネルが展示されています。

Watayumi09

入口の右側には竹内集落の古地図です。

ここを訪れる人たちの休憩所として、
裏庭とともに整備された建物は
もとは造り酒屋の建物であったそうです。

Watayumi092

内部は柱や梁(はり)を残すのみですが、
それがまた往時の雰囲気を感じさせてくれます。

Watayumi10

その竹内街道

ちょうど奈良と大阪の県境になる竹内峠から
ここに下ってくる街道はこの先ですぐに「長尾神社」に。
そこからは横大路となって桜井へと続きます。

思わぬ「当麻寺。奥院」から
懐かしい竹内街道の芭蕉「綿弓塚」に再会でした。

2013年11月28日 (木)

八幡神社獅子舞奉納 外宮

紅葉めぐりの真っただ中ですが少しお休みして ^^;
11月22日(金)に伊勢神宮外宮の
「せんぐう館奉納舞台」で行われた「獅子舞」です。

三重県桑名市長島町にある「八幡神社」で、
毎年秋の例大祭に舞われる獅子舞を、
「八幡神社獅子舞保存会」の皆さんによる奉納でした。

その様子を詳しく載せるには手もとに資料が無く、
ネットで調べた限りの資料を参考に、
奉納された6つの舞を簡単に紹介します。

まずは「場ならし」から始まります。

Hono01

天狗と、鶏頭天狗面をつけた子供(ささら擦り)が、
舞台を三度回り場ならしを行います。

そして獅子が出てきます。

Hono02

これが最初の舞いで、
舞台の四隅を浄めながら舞うという「出舞」だそうです。

次が「寝舞」。

Hono03

ささらを擦る子供が獅子の上を飛び越え、
暴れる獅子をなだめながら舞います。

Hono04

Hono05

子供とともに舞う2頭の獅子でした。

このあとが「扇舞」。

Hono06

子供の持つ扇をオスの獅子が食べるまでの、
獅子の動きのある舞いです。

Hono07

扇を狙う獅子の動きもまた見どころでしょうか。

Hono08

Hono09

扇を獅子が食べた後、
舞う獅子を子供が飛び跳ねながら追っかけていますが、
この辺りは何か?よく分かりません ><;

次が「刀舞」。

Hono10

獅子が刀をくわえて
舞台の四隅を刀によって浄める勇壮な舞い。

Hono11

咥えた刀を途中から抜いて、
獅子と子供が対峙しながら舞台を回ります。
なかなか迫力のある舞いでした。

そして最後は「花舞」です。

Hono12

Hono13

2頭の獅子が笹にぶら下がった花飾りを
交互に食べにいきます。

Hono14

飾りを食べに行きながらなかなか食べず、
下がっては前へを繰り返し、

Hono15

最後に飾りを咥えて引きちぎります。

Hono16

Hono17

なかなか上手くいきませんが、
ようやく2頭が飾りものを口にしました。

Hono18

これで獅子舞の奉納が終わりました。

元禄12年(1699)に始められたという獅子舞は、
現在でも古式が継承されている貴重な神事として、
昭和63年に桑名市無形民族文化財に指定されています。

この日はまたひとつ、
地方に伝わる歴史ある伝統文化を楽しみました。

2013年6月18日 (火)

ハツチョウトンボ

三重県上野市友生にある「上野森林公園」のサギソウ園で、
ハツチョウトンボが飛び始めたとの情報でした。
亀山公園の花しょうぶを見たあとに立ち寄りです。

いつもはサギソウと一緒なんですが、
このところ花ばかりなのでちょっと一休み ^^;
その可愛いトンボをご覧ください。

小さいと言えばこの花も小さいです。

Ueno01

サギソウ園に咲く”トキソウ”
なかなかこちらを向いた花が見当りませんが

Ueno02

こんな花です ^^;
花の色がトキ色をしているところから名が付きました。
右はこれから開くところ。

さて、ハツチョウトンボ

Ueno03

体長は18-20ミリほどで日本最小のトンボ。
綺麗な赤は雄 ^^;

Ueno04

穂先に止まって動きません ^^
動けば動いたでとても撮れません ><;

場所が園路の水場に変わりますが

Ueno05

こちらもオスのハツチョウトンボ。
まだ色変わりする途中です。

Ueno06

これから真っ赤に変身します。

この日は雌にお目にかかりませんでしたが、
これによく似た色で茶褐色の胴体です。

この日も真夏日でしたが園路を周りました。
この時期咲くのは木の花です。

Ueno07

Ueno08

ノイバラ
やや終りに近いです。

Ueno09

ソヨゴ
僅か1本だけ咲いていました。

Ueno10

そしてネジキです。
今はこの花が一番多く咲いています。

「三重県上野森林公園」
夏本番を前にハツチョウトンボと戯れました。   14日

2012年10月29日 (月)

ほたるの里 種生

三重県伊賀市種生(たなお)地区。
市の南部に位置する山間の小さな里ですが、
ここに懐かしい木造校舎があります。

「三重の里 いなか旅のススメ」というHPで偶然知り、
一度出かけてみたいと思っていました。

場所がちょうど青山リゾートへの道筋にあり、
以前に”セージまつり”を見に行った帰りに
立寄ってみました。

まず見たかったのが「旧博要小学校」の木造校舎

Tanao01

大正5年に建設され、
平成15年に小学校統合により廃校となります。

翌16年、その木造校舎を整備し、
「博要の丘」としてNPO法人が立ちあがり、
現在は地区市民センターとなっていま。

Tanao02

Tanao021

校舎入口には
授業を始める鐘もそのまま残っています。

案内を乞い、校舎内を見せていただきました。

Tanao03

正面の教室に行く廊下には
大正時代からのクラスの卒業写真が並んでいます。

Tanao04

中から見る校舎入口

その教室は現在ホールに改修されていて
貸ホール(有料)として利用が可能のようです。

Tanao05

この後ろにはもうひとつ校舎がありますが、
今は荒廃して立ち入りができないそうです。

この里は歩いて散策したかったんですが、
残念ながらこの日は時間が無く車での移動。

Tanao06

過疎化の進む山村に危機感を感じた
青壮年有志の方たちが活性化に立ちあがり、
高齢者でも農業ができるようにと田んぼや水路が整備され、
併せて”ほたる水路”も造られ ”ほたるの里”とも。

ここはまた「兼好法師ゆかりの地」といわれ、
「兼好塚」があります。

Tanao07

Tanao08

目指す「兼好塚」の途中にある「種生神社」

Tanao09

Tanao10

そしてその傍にある「常楽寺」。

ここから1.4キロ先の「兼好塚」へ行きます。

Tanao11

公園として整備されている「兼好塚」。

”徒然草”の吉田兼好が、
この地で晩年を過ごし、観応元年(1350)その生涯を、
ここ草蒿寺で閉じたと言い伝えられる・・・と。

芭蕉の門下服部土芳の句碑もある広場を行くと

Tanao12

その「終焉の地碑と草蒿寺跡碑」

Tanao13

傍らの階段を上れば

Tanao14

Tanao15

右に「兼好法師顕彰碑」と、
その左には「兼好塚」が並んでいました。

Tanao16

里内を流れる小川

ここでは毎年ほたる鑑賞会や、
「ほたるまつり」も実施されているそうです。
伊賀市南部の山里に、
懐かしい”木造校舎とほたるの里”を訪ねました。

2012年7月13日 (金)

歌才ブナ自生北限地

各地で大雨による警戒のニュースがながれるなか、
被害地の皆様には心からお見舞い申し上げます。

そんな雨のなかで動くこともままならず・・・
以前の北海道旅行から記事の復活です ^^;
旅行2日目の積丹半島のあと、
宿に向かう途中に立ち寄った道の駅「くろまつない」。
その駐車場で目にした黒松内町の散策マップ。

なかにあったひとつが
「歌才(うたさい)ブナ林散策コース」でした。

Utasai01

予定の行程より早く時間があったこともあり、
”ブナ自生北限地”の文字に急遽立寄りました ^^;

入口からブナ林までは800m    6月11日

Utasai02

Utasai03

新緑が美しい林の中の道を
足元に咲く花たちを楽しみながら行きます。

Utasai04

初春に咲いたエンレイソウの実

Utasai05

キクムグラと思ったんですが、
クルマバソウかも ??^^;

Utasai06

こちらはユキザサ

Utasai07

そしてマイズルソウの群生が続きます ^^

Utasai08

林の中を流れる歌才川の木橋、を渡ると、
歌才ブナ林の入口に到着。

Utasai09

ここから木の階段が続く急坂を上ります。

といっても整備された歩きやすい坂道です。

Utasai10

Utasai11

同じ新緑でも樹齢が220~270年という、
このブナ林の緑はまた格別です。

Utasai12

急坂を上りると尾根筋になりここが「ぶなのき台」、
この先1キロほどブナ林の散策路が続き戻ります。

昭和3年に国の「天然記念物」に指定され、
自生するブナの北限地になるという「歌才ブナ林」。
旅の途中に思わぬブナ林の散策でした。