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2019年7月22日 (月)

日本武尊尾津前遺跡

三重県中部から北勢部には日本武尊ゆかりの地が多くありますが、
以前に桑名市多度町戸津と小山にある「尾津神社」を訪ねたことがあります。
そのときは多度の地が日本書紀にでてくる尾津浜の地だとは知ったんですが、
日本武尊(ヤマトタケル)とのゆかりは何も分かりませんでした。
まさか、こんなところに遺跡があったとはつゆ知らず・・・
雨の中を急遽の訪問でした。

その日本武尊ゆかりの地はこちら、多度町御衣野(みぞの)にある
こちらもまた「尾津神社」です。

Ozusakiyt01
戸津の尾津神社とは規模が違いますが、
こちらは何やらそれらしき雰囲気がある社叢です。

Ozusakiyt02 
Ozusakiyt03 
参道への両脇に建つ石柱

Ozusakiyt04
そして説明板
原文は難しくいちいち書き写すのも面倒で・・・手抜き ^^;

Ozusakiyt05
鳥居をくぐって真っ暗ななか、石段の参道を上ります。
 
Ozusakiyt06 
神話の中で、日本武尊が東国への出征の途中、
太刀を置き忘れた尾津前(日本書紀では尾津浜)の地が
ここ草薙神社?(尾津神社)と伝えられているそうです。

Ozusakiyt07 
東国平定のあと、伊吹山で手傷を負った日本武尊が大和へと帰る途中、
当芸野(たぎの・養老町)から杖衝坂(つえつきざか・四日市)、
そしてここ尾津崎の一本松(多度町)へとたどり着き、
忘れた太刀がまだ残されているのを見つけます。(順番は間違いですね ^^;)

Ozusakiyt08
小さな祠の前には説明板があり
”日本武尊御太刀掛松ト伝説セル松樹ノ枯損セルヲ覆蓋ヲ設ケ
古来ヨリ大切ニ保存シアルモノナリ”とあります。

Ozusakiyt09
拝殿

そこで先述の歌、「尾張に 直に向へる一つ松 あはれ一つ松 人にありせば
衣著せましを 太刀佩けましを」(日本書紀)と詠んだとされています。

Ozusakiyt10 
本殿

そのあと、
日本武尊は 能褒野(亀山市・鈴鹿市とも)までたどり着くものの、
その地で息を引き取ります。
” やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 
  山ごもれる やまとしうるわし 
” は最後に詠んだ歌のひとつ。

Ozusakiyt11 
日本武尊の墓陵は能褒野に造られますが、
その魂は白鳥となって大和に向かって飛び立ったという・・・。

多度町に残る日本武尊ゆかりの地御衣野の尾津前遺跡。
それがいつも走り過ぎる道の傍にあったとは、これぞ灯台下暗し ><;
戻るなか、どしゃ降りの雨になりました。    22日

2017年8月28日 (月)

佐屋街道 佐屋

愛知県愛西市佐屋町は旧佐屋街道(佐屋路)の宿場町ですが、
残念ながら今はその面影は何もありません。
佐屋街道もブログを開設したすぐに歩いたところで、
ここも芭蕉ゆかりの地といえば・・・ゆかりの地。
さすがにこの暑さで通し歩きは止めましたが ^^;
芭蕉「水鶏塚」と、わずかな宿場の名残りを訪ねてみました。

名鉄「日比野駅」から南に少し歩き、
旧街道に出て西に向かうとすぐに内佐屋交差点。

Saya0

交差点を南へ折れるとある「佐屋海道址」碑です。

ここから佐屋宿までは約1kmほど、
須依の交差点で右折すると旧佐屋宿です。

Saya01

集落の途中にある「水鶏塚(くいなづか)」への道標。
先を急ぐと見落としてしまいそうですが、
もちろんここは立ち寄ります ^^;

Saya02

細い道を100mほど行くとある「水鶏塚」。
少々落ち葉があって荒れてはいますが ><;

Saya03

奥に「水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊 芭蕉翁」の碑があります。
元禄7年(1694)5月、江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中に、
佐屋の門人、山田庄佐衛門邸に泊まったときに詠んだ句。

旧街道に戻って

Saya04

さらに西へと行き、次の交差点に出る手前に

Saya05

「左 さや舟場道」の石柱があります。
この辺りが元舟場所前で旅籠屋があったところ。

この後ろは民家のブロック塀ですが
そこには”きこくの生垣”の案内板があります。

Saya06

案内によるとこの生垣は
「尾張名所図絵」にも描かれているもので

Saya07

”いこく”とはカラタチのことだそうです。

Saya08

道を挟んだ北側には「佐屋代官所址」がありますが、
代官制度が出来たとき、
その最初の代官所がここ「佐屋代官所」であったとも。

Saya09

さらに交差点を挟んで小さな公園がありますが、
その横を西(見える右側)に行けば木曽川へ。
南(左側)の道を行けば弥富から桑名へ続きます。

その公園の南端にあるのが「佐屋三里之渡址」碑。

Saya10

昔はここまでが川だったため、ここが佐屋街道の終点。
ここから桑名までは水路3里の船旅でした。

「佐屋街道」(佐屋路、東海道佐屋廻りとも)。
熱田の宮宿から岩塚、番場、神守宿(津島市)を通って、
佐屋宿までの陸路6里と、桑名までの水路3里の合わせて9里。
東海道の海上7里(28km)より2里ほど長い道程ですが、
荒天による船止めや、船酔いを避けた旅人で賑ったという・・・。

2016年8月13日 (土)

宮田宿本陣 旧新井家住宅

伊那から木祖へと向かう途中でしたが、
広域農道(中央アルプス花の道)を走っていて、
目に入った看板に思わず立ち寄りました。

長野県上伊那郡宮田村新田にある
「旧新井家住宅(宮田宿本陣)」です。

Miyata01

「宮田村ふれあい広場」の東にあるその建物。

Miyata02

南側にある門と

Miyata03

こちらは母屋の入口ですが、
開館中は無料で内部を見学できます。

Miyata04

その母屋の内部
入口を入ると馬屋のある土間があり

Miyata05

入口側には「しもでい」と、
奥に「おもてざしき」と呼ばれる部屋

Miyata06

次の間は囲炉裏のある「だいどころ」と、
奥に「なかのへや」とあります。

裏戸を開けてでると

Miyata07

なまこかべの土蔵があります。

Miyata08

裏庭からの母屋。
板葺き屋根の上に置かれた石が特徴的な建物ですが

Miyata09

裏門でしょうか?

水路には赤い橋が架かっています。

Miyata10

母屋に続くのは主客が泊まる本陣(座敷棟)。
内部でつながっていますが裏側から回り込みます ^^;

Miyata11

座敷棟前に引かれた水路

Miyata12

Miyata13

座敷棟の玄関は
母屋から渡り廊下で結ばれています。

Miyata14

正面

江戸時代の宿場町のほぼ中央にあった建物を、
創建当時の姿に移築復元したもの。
母屋が18世紀後半、座敷棟が19世紀初めに
建てられたものと推定され、伊那街道では唯一、
江戸時代の姿のままに残された本陣建物という。

Miyata15

玄関から見る座敷

京極高知(たかとも)が整備したといわれる伊那街道。
飯田から6番目になる宮田宿は、
伊那街道の中でも重要な宿場であった・・・と。

Miyata16

新井家は本陣と、母屋の部分がお茶屋を兼ね、
さらに、一時期は問屋も兼ねていたという・・・。
(宮田村HPから抜粋)

思わぬところで思わぬ建物、
復元とはいえ、伊那街道に現存した
貴重な本陣建物が見学できました。   9日

2016年2月15日 (月)

堀田家住宅 津島市

愛知県津島市南門前町にある「堀田家住宅」。
江戸時代中期(1711~1716)に建てられたといわれ、
修理・増築を重ねたあと
昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。

この時期には堀田家ゆかりの御殿雛が展示されている
とのことで出かけてみました。

Tsushima01

受付の横にある前庭を見て、
建物を主屋の玄関へと回り込みます。

Tsushima02

長い板塀の続く主屋の東側

Tsushima03

主屋の居室部は、切妻造の平入り、
瓦葺二階建てという江戸時代の町屋様式。
両妻に卯建をあげ、片方には忍び返しがついています。

Tsushima04

玄関になる大戸口
入ると左手には「こみせ(待合の間)」があり、

Tsushima05

右手には営業空間の「みせ」、
その奥には一段高くなった
「みせざしき(客間座敷)」になっています。

Tsushima06

内玄関の広い土間には、
かまどの上に荒神が祀られた「荒神かまど」があり、


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さらに奥には「おくどさん」のある台所

Tsushima08

土間の西側、奥に向かっては生活の場となる
居間・寝室・仏間が配置されていますが、

Tsushima09

その寝室に居間、隣には仏間

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箱階段を上がると二階には二間の座敷

Tsushima11

さらに座敷を行くと
”茶ざしき”から”なかのま”と続き奥に書院です。

廊下に出ると”坪の内露地”に「茶室」が建ちます。

Tsushima12

その茶室内部

そして、
この日の目的でしたお雛さんは

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この書院にありました ^^

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約100年前の白木造り御殿飾りで、
大正初期のお雛さんです。

Tsushima15

あまり撮ったことがありませんが横からです ^^;

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書院の奥庭からは当時の西蔵がみえますが、
その横に小蔵、東蔵が建っています。

この住宅、本来は東向きでしたが、
道路の拡幅で方位を45度北に振って曳屋されたため、
現在はほゞ北が正面になっています。

Tsushima18

こちらは出口の近くに飾られていたお雛さん。
昭和初期の御殿七段飾りの内裏雛だそうですが、
このお雛さんの御殿を見たかったですね ^^;

津島市の「堀田家住宅」
開館日は土・日曜・祝日のみです。   13日

2015年1月20日 (火)

明治村・坐漁荘

明治村の非公開建物が時間限定で見学できる建物ガイド。
先出しした「呉服座(重文)」は偶然の参加でしたが、
この日はここが目的でした。

3丁目27番地にある西園寺公望別邸「坐漁荘」です。

Zagyo01

この「坐漁荘(ざぎょそう)」は
西園寺公望が政治の第一線から退いたあと、
大正9年(1920)に駿河湾奥、清水港近くの
興津の海岸に建てた別邸。

Zagyo02

門(通用口)を入って前庭を行くと

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玄関

西園寺公望亡き後、幾多の変遷を経て、
昭和43年(1968)に明治村への移設話がまとまり、
昭和45年(1970)、移設公開が始まる。

この時間の見学は我が身ひとり ><;

Zagyo04

玄関の間から畳廊下を通り次の間へ。

随所に竹が使われているとの説明を聞きながら、
撮影を待ってくださるガイドさんにはあまりにも失礼と、
あとは説明箇所をメモ代わりに撮るだけ ^^;

Zagyo05

広縁を挟んだガラス戸越しに見える入鹿池は、
興津の別邸から見える駿河湾がイメージされています。

   Zagyo06

建物には強い海風に耐えられるよう工夫がされていて、
これは鉄筋の水平筋違いで補強されている壁の様子。
(その説明用に造られた壁です)

Zagyo07

Zagyo08

昭和4年(1929)、座敷の横に洋間が、
また、その奥には脱衣室を兼ねた化粧室や
風呂場などが増築されました。

Zagyo09

その脱衣室

ここは普通の畳とは違って
畳縁(たたみべり)と呼ばれる帯状の布がなく、
また、浴室や洗面台の間には滑り止めのため
波紋様の板が敷かれています。

2階へ

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鶯張りの廊下を通って座敷へ、

Zagyo11

ここからは入鹿池がはっきりと望めます。
興津に建てられた当時は右手に清水港から久能山が、
左手に伊豆半島が遠望されたという。

実は、以前に旧東海道を歩いたとき、
静岡県清水市興津でこの「坐漁荘」を見ていました。
その復元された興津の建物がこちらです。

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興津の「坐漁荘」門(通用門)。
(2007年2月撮影、以下同)

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玄関

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1階広縁

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増築された洋間

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興津「坐漁荘」建物(座敷側の外観)。
平成16年(2004)に復元されたもので、
「興津坐漁荘」の名称で一般に公開される。

ちなみに明治村の「坐漁荘」を
同じように切り取ってみました ^^

Zagyo12

懐かしい興津「坐漁荘」を思い出しながら、
明治村でその「坐漁荘」の見学でした。

細部の写真は省きましたが、
最後の元老といわれた西園寺公望別邸ならではの、
工夫された建物の造りを知ることができます。

2015年1月19日 (月)

明治村・呉服座

愛知県犬山市にある博物館「明治村」。
ここではガイドさんの案内で時間限定ですが、
非公開の建物内部が見学できます。
少し日が経ちましたがそのガイドに初めて参加したのが、
4丁目49番地にある「呉服座(重文)」でした。

江戸時代以来伝統建築の名残を留める芝居小屋です。

Gofukuza01

明治初年大阪府池田市に建てられ
当時は「戎座」と呼ばれていましたが、
明治25年(1892)に西本町猪名川の川岸に移され、
名称も「呉服座」と改められます。

Gofukuza02

地方巡業の歌舞伎をはじめ、
壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等、
様々なものが演じられました。

Gofukuza04

桝席に渡された桟を歩いて客席へ。

Gofukuza05

客席は平場(平土間)と呼ばれ、
桝席に区切られている中央の低い部分と、
桟敷と呼ばれる廻りの部分からなっています。

Gofukuza06

客席後部

Gofukuza07

舞台の袖から奈落へと降ります。

ちょうど廻り舞台の下、
今は見学用の照明が点いていますが、
当時、灯りはすべてローソクだったとか。

Gofukuza08

廻り舞台は円周に沿って取り付けられた
車と中心軸とで支えられています。

Gofukuza09

廻り舞台の下から
袖に付けられた花道の下を行くと

Gofukuza10

入口近くには楽屋があり、
そこから花道の出入り口に出ました。

普通、楽屋は舞台の裏手等に設けられていますが、
この呉服座では入口土間の上にあります。

Gofukuza11

大きな音を立てて揚幕が引かれると、
舞台の花道へ。

Gofukuza12

ここは七三(舞台へ三分、揚幕へ七分)の位置で、
役者はここで一度立ち止まり、
芝居を演じたり、見得(みえ)を切ったりするところ。

Gofukuza13

客席は全体に斜めになっています。

芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であつたことが
この建物の役割でもあると同時に、
マスコミの重要な役割も果たしていたという・・・
(主要部は明治村説明文より引用)。

非公開建物が公開される建物ガイド、
まずは「呉服座(重文)」の見学体験でした。

2015年1月16日 (金)

おかげ横丁の屋根瓦

今年も恒例の新春詣でに出かけた伊勢神宮内宮、
そのあと立ち寄った「おかげ横丁」です。

数年前に一度載せたことがある建物の屋根瓦。
この日は久しぶりにその鬼瓦や飾り瓦、
軒瓦を見上げて横丁の散策でした ^^;

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「おかげ横丁」
ここではやはり猫です ^^;

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可愛い猫もいれば

   Ise03

こんな猫もいます ^^

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人目につかないところにも”まねき猫”

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こちらは屋根にいる飾り瓦の猫

飾り瓦といえば

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こんなのも

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こちらは傑作の飾り瓦!
左から、見るさる、聞くさる、言うさる!
”良く見て、良く聞いて、良く話してね”、だそうです^^;

その軒瓦に書かれているいる文字は
” (思え) ば 涙 が 先 に 立 つ ”
道中伊勢音頭”別れの唄”の一節 です。

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そしてこちらは正調伊勢音頭(さわぎ)から、
 ”(わしが国さは お伊勢が遠い)
  お 伊 勢 恋 し や ま い り た や ” ^^
他にもたくさんの伊勢音頭の一節があります。

飾り瓦は軒先から屋根上に。

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リス?

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ハト

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これは本物 ><;

そして鬼瓦です。

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「徳力富三郎版画館」の鬼瓦は”扇子に徳”ですが、
「おかげ横丁」の初期の建物には、
徳力氏がデザインした鬼瓦と軒先瓦が使われています。
その鬼瓦は・・・

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波に鯛

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宝船

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打出の小槌に

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福助など。

それ以外にも珍しい鬼瓦もあります。

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伊勢エビ?

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鯛を抱えた七福神のえべっさん、
なぜか右手に竿はありません ^^;

まだまだ載せたい屋根瓦はありますが、
それはまたの機会に・・・。

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そして「おかげ座」です。
平成13年、天照大神などのルーツを紹介する施設
「おかげ座 神話の館」として生まれ変わっています。

懐かしい「おかげ横丁」の屋根瓦でしたが、
横丁だけではなく、おはらい町の建物でも
楽しい屋根瓦が楽しめます。

2014年10月 7日 (火)

竹中半兵衛ゆかりの地

豊臣秀吉の参謀として活躍した「竹中重治(通称は半兵衛)」。
軍師「黒田官兵衛」とともに”二兵衛”と称される。
そのゆかりの地が岐阜県の垂井町岩手にあります。

半兵衛と父、重元は垂井町岩手の菩提山に城を築き、
以後ここを居城としました。

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半兵衛没後に嫡男の重門が菩提山城を廃して
その麓に陣屋を構えます。

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樽井町岩手にある「竹中家陣屋跡」と
正門の櫓門(やぐらもん)。

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正門横にある「竹中半兵衛像」

秀吉に仕える前は美濃の斎藤義龍・龍興に仕え、
織田信長の美濃侵攻に対しては
その知略により何度も切り抜けています。

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陣屋跡から北にある竹中氏菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」。

”美濃に半兵衛あり”といわれるもその後垂井町に隠棲。
信長の侵攻により斎藤氏が滅亡後、
織田信長から命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の説得に、
信長ではなく秀吉の家臣となります。

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「鐘楼」

秀吉の軍師となった半兵衛は播磨攻めの折、
黒田官兵衛と知り合いますが、
それが二人の最初で最後の参陣となります。

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「本堂」

天正7年(1579)
播磨三木城を包囲中に病に倒れ京都で療養するも、
すでに自らの死期が近いことを悟ります。

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竹中半兵衛重治の墓(左)と父重元の墓

武士ならば戦場で死にたいと三木の秀吉本陣に戻り、
陣中で病没、享年36歳でした。

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墓所は陣地のあった兵庫県三木市にありますが、
ここ以外にも数カ所存在するようです。

Tarui10


後年は秀吉に迎えられ参謀として活躍しましたが、
私的には美濃の国主「斎藤義龍・龍興」に仕えたころの、
数々の逸話を持つ竹中半兵衛の印象が強くあります。

そんな竹中半兵衛ゆかりの地を
まだ彼岸花の咲き残るころに訪ねました。

2013年12月15日 (日)

芭蕉 綿弓塚

「石光寺」の寒ぼたんを見たあとは、
いつものように「當麻寺・奥の院」の冬牡丹を見に行きます。
ところが今年はちょっと様子が違いました。
まだ全然咲いていなくて咲くのは12月下旬ごろという ><;

さて、このあとどうするか?困りました。
雨がぱらつくなか帰ってもよかったんですが、
せっかくここまで来ていながらそれでは能がないと、
立寄ったのはここです。

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もう随分と前に歩いた竹内街道(たけのうちかいどう)。
そのときに少しふれましたが、
奈良県側の竹内集落にある芭蕉ゆかりの「綿弓塚」です。

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街道沿いには古民家を改装した休憩所があり、
奥は整備された小公園(綿弓広場)になっています。

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     Watayumi04

その綿弓広場に建つ「綿弓塚」。

貞享元年(1684)秋、
門人の千里(ちり)を伴った旅の「野ざらし紀行」で,
千里の旧里でもあるこの地に滞在しています。

そのときに詠んだ句
”わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく”を記念して、
芭蕉没後150年の文化6年(1809)に建てられました。
右面にその句が刻まれています。

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少し離れて建つ千里の句碑
”深川や芭蕉を富士に預け行く 千里” (野ざらし紀行)。

休憩所内です。

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入口から順に ^^

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中央には竹内街道沿いの見どころを紹介する
写真が張られたパネルが展示されています。

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入口の右側には竹内集落の古地図です。

ここを訪れる人たちの休憩所として、
裏庭とともに整備された建物は
もとは造り酒屋の建物であったそうです。

Watayumi092

内部は柱や梁(はり)を残すのみですが、
それがまた往時の雰囲気を感じさせてくれます。

Watayumi10

その竹内街道

ちょうど奈良と大阪の県境になる竹内峠から
ここに下ってくる街道はこの先ですぐに「長尾神社」に。
そこからは横大路となって桜井へと続きます。

思わぬ「当麻寺。奥院」から
懐かしい竹内街道の芭蕉「綿弓塚」に再会でした。

2013年11月28日 (木)

八幡神社獅子舞奉納 外宮

紅葉めぐりの真っただ中ですが少しお休みして ^^;
11月22日(金)に伊勢神宮外宮の
「せんぐう館奉納舞台」で行われた「獅子舞」です。

三重県桑名市長島町にある「八幡神社」で、
毎年秋の例大祭に舞われる獅子舞を、
「八幡神社獅子舞保存会」の皆さんによる奉納でした。

その様子を詳しく載せるには手もとに資料が無く、
ネットで調べた限りの資料を参考に、
奉納された6つの舞を簡単に紹介します。

まずは「場ならし」から始まります。

Hono01

天狗と、鶏頭天狗面をつけた子供(ささら擦り)が、
舞台を三度回り場ならしを行います。

そして獅子が出てきます。

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これが最初の舞いで、
舞台の四隅を浄めながら舞うという「出舞」だそうです。

次が「寝舞」。

Hono03

ささらを擦る子供が獅子の上を飛び越え、
暴れる獅子をなだめながら舞います。

Hono04

Hono05

子供とともに舞う2頭の獅子でした。

このあとが「扇舞」。

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子供の持つ扇をオスの獅子が食べるまでの、
獅子の動きのある舞いです。

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扇を狙う獅子の動きもまた見どころでしょうか。

Hono08

Hono09

扇を獅子が食べた後、
舞う獅子を子供が飛び跳ねながら追っかけていますが、
この辺りは何か?よく分かりません ><;

次が「刀舞」。

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獅子が刀をくわえて
舞台の四隅を刀によって浄める勇壮な舞い。

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咥えた刀を途中から抜いて、
獅子と子供が対峙しながら舞台を回ります。
なかなか迫力のある舞いでした。

そして最後は「花舞」です。

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Hono13

2頭の獅子が笹にぶら下がった花飾りを
交互に食べにいきます。

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飾りを食べに行きながらなかなか食べず、
下がっては前へを繰り返し、

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最後に飾りを咥えて引きちぎります。

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なかなか上手くいきませんが、
ようやく2頭が飾りものを口にしました。

Hono18

これで獅子舞の奉納が終わりました。

元禄12年(1699)に始められたという獅子舞は、
現在でも古式が継承されている貴重な神事として、
昭和63年に桑名市無形民族文化財に指定されています。

この日はまたひとつ、
地方に伝わる歴史ある伝統文化を楽しみました。