大高史跡めぐり・城と砦
名古屋市緑区大高町の史跡めぐりは名鉄左京山駅からでしたが、
大高緑地を抜けると砦前に出ます。
そこから北へと行き、東海道線を挟んで東にある丸根砦跡と鷲津砦跡、
そして西に位置する大高城跡を見て回ります。
「大高城」は当時今川方の支配下にあり、
それに対して信長が築いたのが「丸根砦」と「鷲津砦」でした。
ふたつの砦は桶狭間の戦いを前に、
織田軍と今川軍との間で激しい戦いが行われたところです。
長くなりますが ・・・^^;
大高緑地の外周を南から回り込んで行くと、
緑区の散策コースマップの道と合流するところが砦前に出ます。
そこから北へ行くと、まずあるのが「丸根砦跡」。
民家の中の細い道を行くとある案内板。
”永禄2年(1559)、信長が今川義元の上洛に備え築いた砦のひとつで、
永禄3年の桶狭間の戦いのとき、佐久間盛重を将とし、
松平元康(徳川家康)ら今川勢との激戦で全滅した・・・”とあります。
小高い丘の頂にあったのは「丸根砦戦殉難烈士之碑」、
周りは雑木林で眺望はなく、そのまま砦を抜けて行きます。
こちらが表口になるのでしょうか?
コース図では、かっては尾根続きだったと思われる道、
今は住宅街の中の高台を行きますが、今回は県道に戻ります。
新幹線・東海道線の高架沿いをしばらく行くと「長寿寺」に。
知多四国八十八所・第八十七番札所ですが、
その先に「鷲津砦公園」の碑があり、ここが鷲津砦跡。
ここも小高い丘の雑木林の中を上ります。
上りきったところにある「史跡 鷲津砦址」碑。
永禄2年(1559)に信長が丸根砦とともに築城。
永禄3年の桶狭間の戦いの前に今川勢に攻められて、
飯尾定宗を将とする織田方はここでも全滅したという。
すぐ傍はもう住宅街でしたが、戻る道から眺める大高駅方面。
ここから駅前に出て大高城に向かいます。
大高川を渡り本町通りの細い道を行くと小さな案内板があり、
民家の中の細い道を行きます。
その先が大高城への道。
坂の途中にある「大高城址」の標柱と案内板、
左右は帯曲輪でしょうか?一部は児童公園になっています。
そのまま道を上がると
本丸跡に出ます。
東端からはすぐ先に鷲津砦、丸根砦を望むことができます。
思っていたより広い本丸跡広場。
一段高くなったところには城山八幡社と
その右に「大高城址」碑が建っています。
本丸跡から西に土橋らしき道を行くと二ノ丸への広場。
少し下ったところにあるのが二之丸跡でしょうか?
本丸と二ノ丸との間にある内堀は、
木々に覆われていてかなりの荒れようです ><;
本丸横から帯曲輪へと下る道。
築城年代は不詳、天文・弘治の頃には水野忠氏父子が居城し、
桶狭間の戦いのときには今川の支配下にありました。
織田軍により兵糧攻めを受けていたとき、
松平元康(徳川家康)が兵糧を運び入れたことで知られています。
義元が討たれたあと元康はここから岡崎へと帰り、のちに廃城・・・。
桶狭間の戦いの前哨戦となった大高城とふたつの砦は、
昭和13年(1938)に国の指定史跡になっています。 21日
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