美濃街道 駒野から関ケ原
美濃路(美濃街道)は東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ
脇往還ですが、桑名の東海道から美濃の関ケ原へといたる
もうひとつの美濃街道があります。
関ケ原からは伊勢への道として伊勢街道とも呼ばれる道。
昨年の暮れに桑名の多度から海津市の駒野までを歩いていますが、
この日はその続き、駒野から関ケ原までを歩きました。
駒野集落を行く美濃街道
歩く身に楽しい街道とはいえ、特に見どころもなくただ歩くだけ ><;
ただ、この街道は伊勢街道ともいわれるだけに
神宮と刻まれた常夜灯が多くあります。
で、いきなり常夜灯(南濃町徳田)ですが ^^;
今回はそんな「常夜灯」を中心に道中を紹介してみたいと思います。
街道は南濃町徳田、戸田の集落を抜けると
再び県道56号線(薩摩カイコウズ街道)に出て,
その先で旧道を志津の集落へと入ります。
ここで初めて道標に出会いました。
「右 京都 ・・・ 左 伊勢、多度 四日市 ・・・」は判読できましたが、
あとはどうにも??読めなくても街道歩きではうれしい道標です。
次が津屋の集落、美濃津屋駅を過ぎてしばらく行くと
この常夜灯。
常夜灯は道しるべも兼ねていますが、
この道筋の常夜灯は”神宮”の文字が刻まれています。
すぐ先にある「本慶寺」。
ここはかっての「津屋城」があったところ。
関ケ原の戦いで西軍についたため廃城となりますが、
その後領主の許しを得て本慶寺となっています。
津屋から道は養老町へ入ると一色、船見の集落に。
ここには「太神宮」の常夜灯です。
その先には「観音寺」がありますが、
とにかくこの街道筋にある神社仏閣の多いのにはちょっとびっくり。
小倉から鷲巣の集落に入るとこの石柱、
鷲巣は第13代横綱「鬼面山谷五郎」の生誕地とか。
そして「養老駅」に到着。
駒野駅からほゞ10km、2時間10分の行程でしたが、
ここでひと休みして後半へ。
関ケ原までは残り約15kmほどですが、
ここからはエスケープができず、一気の歩きになります。
県道56号を渡った先で変則5差路を曲がりそこね、
養老公園の道でいきなり迷いタイムロス ><;
本道に戻って養老町石畑の集落へ入ります。
石畑にある比較的新しい道標
ここは伊勢街道と養老街道が交差する柏尾地区。
※ 養老からは伊勢街道に統一します。
柏尾地区から道はいったん県道(通称焼き肉街道)寄りに出ますが
すぐに山沿いに戻り、石畑から勢至の集落へ。
このあと竜泉寺、桜井と行きますが、
この辺りは道が入り組んでいて本道を外した感もありました ><;
沢田地区に入って珍しい二宮金次郎像と学校の門柱。
養老北小学校跡(前身は沢田小学校)との説明碑がありました。
ここでしばらく休憩 ^^;
次が沢田の集落にあった常夜灯(本郷)。
個人の方の寄進によるもので二代目だそうですが、
玉垣で囲われ、唐破風造りの屋根という珍しいものです。
沢田地区を抜けると養老町から大垣市上石津町。
すぐに牧田川を広瀬橋で渡ります。
その先、上石津町牧田で九里半街道に合流。
(ここから関ケ原の中山道までは重複部分になります ^^;)
九里半街道:詳細は省きますが、
江戸時代、養老の濃州三湊から大垣市上石津町、関ヶ原を通り、
中山道で米原の「朝妻湊」までの九里半(38km)を結んだ街道。
その中心部となる牧田宿、
まずはこの大神宮の常夜灯。
そしてこのふたつの常夜灯、刻まれているのは金毘羅大権現と秋葉山、
海上交通の守り神と、火防の神さんですが、
ここ牧田は水運物資で栄えた町でもあります。
牧田集落の外れ「木曽神社」の先にある地蔵尊、
その後ろにまだ新しい?「芭蕉句碑」がありました。
句は ”義仲の寝覚めの山か月かなし 芭蕉”
この先で道は名神高速道をくぐりますが、
その手前にある烏頭坂。
ここは島津豊久奮戦の地。
関ケ原の戦いで西軍の敗戦が決したなか、
孤立した島津軍が家康本陣の敵中突破(島津の退き口)で、
島津義弘を助けるため豊久が踏みとどまって戦ったという。
この上にはその豊久の墓がありますが・・・外しました ><;
関ケ原町に入ってすぐにある道標、
「左 旧道」の指示通り旧道へ。
桑名から始まったもうひとつの「美濃街道(伊勢街道)」、
最後の立ち寄りは桑名藩初代藩主本多忠勝の陣跡でした。
すぐに中山道の追分
そしてJR関ケ原駅に到着です。
ヤマトタケルが伊吹山で負傷して下山、
手負いのまま大和をめざした古道でもあるという・・・
これも数ある伊勢街道のひとつでした。 29日
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