長久手古戦場
「長久手の戦い」の前哨戦となった「岩崎城の戦い」。
日進市の「岩崎城」を載せれば、
やはりここを外すわけにはいけません ^^;
岩崎城から北へ3.5kmほど走ると、
こちらは長久手市の「長久手古戦場」です。
駐車場の傍に建つ「長久手古戦場」の碑
信長の死後、その後継者をめぐって
羽柴秀吉と、信長の次男信雄(のぶかつ)を支援する
徳川家康が戦かった「小牧・長久手の戦い」。
犬山・田楽に陣を張った秀吉軍と小牧山の家康軍は、
双方がにらみ合ったまま膠着状態となります。
戦況を打開するため先に動いた秀吉軍は、
家康の本拠岡崎を攻めるために別働隊を送ります。
長久手で戦いの中心となった地形の”縮景”
その動きを察知した家康も軍を動かし追撃、
秀吉軍の池田恒興隊が「岩崎城の戦い」で手間どる間に、
追いついた家康軍との戦いがここ長久手で始まります。
この戦いで秀吉軍は
池田恒興(つねおき)、元助(もとすけ)父子に、
森長可(ながよし)らの有力武将をを失い、
「長久手の戦い」は家康軍が勝利します。
公園の北側にある「勝入塚(しょうにゅうづか)」
池田恒興(勝入)の戦死した場所と伝えられます。
公園の南側にある「庄九郎塚」
池田恒興の長男で元助(幼名・庄九郎)が戦死した場所と。
ここから300mほど西にある小公園に「武蔵塚」があります。
庄九郎の義兄であり、
また森蘭丸の長兄でもある森長司の戦死場所。
塚名は異名鬼武蔵に因むそうです。
「長久手古戦場」からさらに北へ2kmほど行きます。
こちらは「長久手の戦い」で
徳川家康が陣を張った色金山(いろがねやま)。
今は「色金山歴史公園」として整備されています。
家康が出陣に際して戦勝を祈願したという
「八幡社」があった跡に建つ「八幡社旧蹟碑」。
その傍には家康軍の武将「伴若狭守盛兼」の墓碑。
さらに石仏の建ち並ぶ観音道を行きます。
登りきったところが「床几石広場」。
奥に見える大きな岩が”床几石”
家康が軍議の際に腰かけたといわれる石で、
周辺は国指定史跡です。
ここには広い展望テラスがありました。
はるかに鈴鹿連峰が見わたせる絶景!
目の前には長久手、日進の市街地が広がり、
仏ケ根(長久手古戦場周辺)も遠望できます。
まるで砦のような「展望テラス」、
その下には「長久手の戦い」が描かれたレリーフもあります。
思わぬ勘違いで見れなかった
「岩崎城歴史記念館」の「おひなさま展」から、
一転して歴史散策となったこの日でした。
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好好爺さん
後に臣従する事になる家康に、秀吉はこの戦いでは、負けているのですね。秀吉が、家康を心から怖れていたことは、歴史小説では何度も取り上げられています。遠く関東の地へ追いやって一安心でしたが、死の間際には家康の手をとって何度も秀頼のことを頼んでいますね。家康は、しかし、その秀頼を殺します。戦国時代は食うか食われるか「人でなし」の時代ですね。
投稿: shuttle | 2015年1月31日 (土) 19時31分
shuttle さん
この戦いのあと信雄は秀吉と和睦してしまいました。
家康は戦いで勝ったものの後に次男・於義丸(結城秀康)を
養子として大阪に送っています。
さらに2年後の上洛が秀吉への服従を決定づけています。
その後の秀吉に対する行動は仰るとおりですね。
戦国の世では策略は当たり前だったのでしょう。
投稿: 好好爺 | 2015年2月 1日 (日) 17時40分