竹中半兵衛ゆかりの地
豊臣秀吉の参謀として活躍した「竹中重治(通称は半兵衛)」。
軍師「黒田官兵衛」とともに”二兵衛”と称される。
そのゆかりの地が岐阜県の垂井町岩手にあります。
半兵衛と父、重元は垂井町岩手の菩提山に城を築き、
以後ここを居城としました。
半兵衛没後に嫡男の重門が菩提山城を廃して
その麓に陣屋を構えます。
樽井町岩手にある「竹中家陣屋跡」と
正門の櫓門(やぐらもん)。
正門横にある「竹中半兵衛像」
秀吉に仕える前は美濃の斎藤義龍・龍興に仕え、
織田信長の美濃侵攻に対しては
その知略により何度も切り抜けています。
陣屋跡から北にある竹中氏菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」。
”美濃に半兵衛あり”といわれるもその後垂井町に隠棲。
信長の侵攻により斎藤氏が滅亡後、
織田信長から命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の説得に、
信長ではなく秀吉の家臣となります。
「鐘楼」
秀吉の軍師となった半兵衛は播磨攻めの折、
黒田官兵衛と知り合いますが、
それが二人の最初で最後の参陣となります。
「本堂」
天正7年(1579)
播磨三木城を包囲中に病に倒れ京都で療養するも、
すでに自らの死期が近いことを悟ります。
竹中半兵衛重治の墓(左)と父重元の墓
武士ならば戦場で死にたいと三木の秀吉本陣に戻り、
陣中で病没、享年36歳でした。
墓所は陣地のあった兵庫県三木市にありますが、
ここ以外にも数カ所存在するようです。
後年は秀吉に迎えられ参謀として活躍しましたが、
私的には美濃の国主「斎藤義龍・龍興」に仕えたころの、
数々の逸話を持つ竹中半兵衛の印象が強くあります。
そんな竹中半兵衛ゆかりの地を
まだ彼岸花の咲き残るころに訪ねました。
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