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2014年10月 7日 (火)

竹中半兵衛ゆかりの地

豊臣秀吉の参謀として活躍した「竹中重治(通称は半兵衛)」。
軍師「黒田官兵衛」とともに”二兵衛”と称される。
そのゆかりの地が岐阜県の垂井町岩手にあります。

半兵衛と父、重元は垂井町岩手の菩提山に城を築き、
以後ここを居城としました。

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半兵衛没後に嫡男の重門が菩提山城を廃して
その麓に陣屋を構えます。

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樽井町岩手にある「竹中家陣屋跡」と
正門の櫓門(やぐらもん)。

Tarui04

正門横にある「竹中半兵衛像」

秀吉に仕える前は美濃の斎藤義龍・龍興に仕え、
織田信長の美濃侵攻に対しては
その知略により何度も切り抜けています。

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陣屋跡から北にある竹中氏菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」。

”美濃に半兵衛あり”といわれるもその後垂井町に隠棲。
信長の侵攻により斎藤氏が滅亡後、
織田信長から命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)の説得に、
信長ではなく秀吉の家臣となります。

Tarui06

「鐘楼」

秀吉の軍師となった半兵衛は播磨攻めの折、
黒田官兵衛と知り合いますが、
それが二人の最初で最後の参陣となります。

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「本堂」

天正7年(1579)
播磨三木城を包囲中に病に倒れ京都で療養するも、
すでに自らの死期が近いことを悟ります。

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竹中半兵衛重治の墓(左)と父重元の墓

武士ならば戦場で死にたいと三木の秀吉本陣に戻り、
陣中で病没、享年36歳でした。

Tarui09

墓所は陣地のあった兵庫県三木市にありますが、
ここ以外にも数カ所存在するようです。

Tarui10


後年は秀吉に迎えられ参謀として活躍しましたが、
私的には美濃の国主「斎藤義龍・龍興」に仕えたころの、
数々の逸話を持つ竹中半兵衛の印象が強くあります。

そんな竹中半兵衛ゆかりの地を
まだ彼岸花の咲き残るころに訪ねました。

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