鬼室神社 滋賀日野町
滋賀県の日野町に行くときに通る農道で、
いつも目にする「鬼室神社(きしつじんじゃ)」の案内板。
日本語とハングル語で書かれていて気になっていましたが、
この日はふと誘われるように神社に立ち寄りました。
農道を左折すると蒲生郡小野(この)ですが、
その村の入口にある神社名の石碑。
そして奥の広場に建つ韓国風の建物が目を引きます。
案内板には
”この国際交流広場は、日野町と韓国恩山面(うんざんめん)の
姉妹都市交流20周年を祈念して整備されました。”とあります。
近江朝廷が大津に都を定めたころ、
時の百済の国、白村江(はくすきのえ)戦いで敗れた
多くの人たちが渡来します。
その後、渡来人の高官を含む700余人を
この蒲生郡に移住させたという・・・
その記述が「日本書紀」にあるそうです。
田んぼの傍にある参道を行くと、
小さな林の中にある鳥居と神殿。
移住させられた渡来人の中に優れた文化人であった
鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官がいて、
その墓碑がこの本殿裏の石祠に祀られているという。
その石柱に囲まれた墓碑と石祠
このことから「鬼室神社」と名付けられているそうです。
また、説明には、”鬼室集斯の父である
福信(ふくしん)将軍が韓国の恩山面(うんざんめん)の
恩山別神堂に祀られていることから、
姉妹都市としての交流が盛んに行われてる”とあります。
手水舎
古くは不動堂といい小野村の西の宮として
江戸期まで崇敬された社であったというこの神社。
日野町小野にある「鬼室神社」
思わぬ「日本書紀」の世界に触れた神社でした。
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好々爺さん
「白村江の戦い」の項を調べますと、「百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した」と、「鬼室」の名が出てきます。大和朝廷はこの要請を受けて、唐・新羅連合軍と戦うわけですが、敗退したということのようです。近江に遷都したのも、敗戦が一因のように書かれていました。
投稿: shuttle | 2013年1月14日 (月) 09時00分
shuttle さん
そのとおりですね。
御存じのように、「白村江の戦い」に敗れた中大兄皇子は、
唐の報復を恐れて難波宮から内陸の近江大津へ遷都します。
(ただ、その理由には諸説あるようですが。)
その後即位して天智天皇になりますが、
やはりこの「白村江」での敗戦は
中大兄皇子にとって大失策だったということでしょうね。
投稿: 好好爺 | 2013年1月14日 (月) 17時04分