国境の島・対馬 Ⅱ
離島の旅も最終日。
国境の島・対馬も南部が中心の観光になりましたが、
この日は厳原町の中心部から西部に行きまた戻ります。
厳原町の東海岸から一山越えて西海岸の小茂田(こもだ)へ
小茂田浜沿いにある「小茂田神社」
文永11年(1274)、宗家初代・宗資国(そうすけくに)の時代、
元寇軍3万3000のうち約千騎が小茂田浜に上陸、
迎え撃ったのは資国以下わずかに80余騎とその差は歴然、
激戦の末に全滅します。
神社にはその資国が祀られています。
参道横の松林の中に元寇の戦いの説明板が並びますが、
この地がその”元寇の古戦場”跡。
そして拝殿です。
ここからすぐ隣にある椎根にある石屋根
対馬で産出される板状の石で屋根を葺いた高床式の建物で、
倉庫として使われているそうです。
屋根瓦の代わりに板状の石ですが・・・
鬼瓦の鳥衾の感じですが?凄いですね。
新しい瓦葺きに換えられて石屋根は少ないですが造りは同じ、
どちらかといえば韓国風の建物でしょうか。
珍しい建築物を見て厳原の中心部へと戻ります。
さて、今回の旅の目的でもあったのがここ
「万松院」 ~ 対馬藩主宗家菩提寺~でした。
使われていませんが
島内最古といわれる桃山様式の山門と両脇の仁王像
元和元年(1615)第20代対馬藩主宗義成(よしなり)が、
父義智(よしとし)の菩提を弔うために「松音寺」を創建し、
元和8年(1622)父の法号に因んで「万松院」と改められました。
以前に朝鮮通信使に関するVTRを見ていてここを知り、
一度訪れて見たいと思っていたところでした。
本堂
本堂内に掲げられた「万松精舎」の額
後水尾天皇第三皇女鏡の宮の書になります。
朝鮮国王より寄贈されたという
三具足(花瓶・香炉・燭台)もあります。
本堂内には徳川歴代将軍の位牌もあり、
他にも朝鮮通信使の資料などがあるはずですが・・・
これは見ることができませんでした。(見ても分かりませんが ^^;)
本堂拝観のあとは対馬藩主宗家の墓地(御霊屋)へ
墓地に続く百雁木と呼ばれる123段の石段を行きます。
途中にある下御霊屋(おたまや)には一族の墓
その上にある中御霊屋には第10代貞国と側室、幼児の墓
そして石段を登りきると
県指定天然記念物の大スギがある広場。
短い石段を登った上御霊屋には
第19代義智から32代義和(よしより)まで、
歴代の藩主と正夫人の墓が建ち並びます。
西側には後期藩主の墓
そして東側にあるひときわ目を引く大きな墓石が
第20代藩主義成の墓でした。
唯一大陸との貿易が認められていた対馬藩10万石、
壮大な墓地はそれ以上のもので、金沢の前田藩墓地、
萩の毛利藩墓地とともに日本三大墓地とも言われているそうです。
そして旅の最後は対馬歴史民俗資料館
やはりこれも目的のひとつ「朝鮮国信使絵巻」
写真が撮れず残念でしたが個人的に楽しみました ^^
離島の旅、今回はツアー旅行に参加しましたが、
この旅は船の便数も少なく時間が制限されます。
多くを回れない・・・今回感じた一番の難点でした。
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