関が原・石田三成の暑き夏
天下分目の合戦、関が原の戦は理に走る石田三成と
老獪な徳川家康との対立の戦でもあった?・・・、
いきなり戦乱の日本史、硬い話です。
慶長5年(1600)。
天下を分ける戦の前哨戦はすでに始まっていました。
8月10日、「関が原の戦」を前に石田三成は大垣城に入り
西軍の主力隊が集まります。
その頃、東軍の先発隊も清洲城に集結し、
関が原の本戦に向け東西両軍の動きは激しくなっていました。
そして一ヵ月後の9月15日午前8時。
天下分目の合戦、関が原の本戦の火蓋が切られます。
とまぁ、前置きが長くなりましたが、
今日はわずか半日でこの関が原の合戦に破れた不運の将、
石田三成の暑き関が原(勝手に思っています)の戦です。
岐阜県関が原町にある石田三成陣跡の笹尾山です。
竹矢来の柵を二重にめぐらしたこの本陣で指揮を執り、
山頂から戦況を把握していた三成。
東軍の黒田長政、加藤嘉明、細川忠興の各隊を石田三成隊の
島左近が迎え撃ち激しい戦闘が続きます。
西軍有利で進む戦でしたが、正午ごろ、小早川秀秋の寝返り、
脇坂安治ら4隊にも離反され一気に形勢は逆転していきます。
そして午後2時、西軍は総崩れとなり、
わずか6時間の戦で東軍の勝利となります。
寝返って三成の背後を固めていた大谷吉嗣隊に攻め込み、
西軍を敗北に追い込んだ小早川秀秋の陣があった松尾山
(手前の小高い山)です。
そして三成隊がが最後まで激戦を繰りひろげた地。
笹尾山のすぐ傍に「関が原古戦場決戦地」があります。
右に家康の「三葉葵」と左が三成の「大一大万大吉(だいいちだいまん
だいきち)」の旗印。
参戦した西軍の武将の中でも秀吉の甥に当たる小早川秀秋が
家康に内応していたことを見抜けずに戦いに臨んだ三成。
それは戦を知らずして出世した三成が主家豊臣家のために
戦った「忠義」だけの、
まさに戦を経験しない政治家としての三成の戦だった?とも。
石田三成と徳川家康の対立に始まった「関が原の戦」。
家康の老獪さを最後まで見抜けなかった実直な石田三成の無念を、
ここ関が原の陣跡と古戦場決戦地に感じたひと時でした。
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日本史もこいうふうに見ると 立ち上がってきて
立体的に見えてきますね!
柵や旗印まで立っていて 正にそこに立って居るよう
感じがしてきました。
投稿: ビズー | 2008年8月12日 (火) 11時46分
ビズーさん
写真が少なくて短くまとめるには辛い記事ですが。
この笹尾山は陣跡らしく整備されていて、
関が原の町や周りの山がよく見えます。
仰るようにここに上るとそんな気になりますよ。
投稿: 好好爺 | 2008年8月12日 (火) 17時20分
一句
返信の「立つ」並びにも 気ずいてよ
投稿: ビズー | 2008年8月13日 (水) 21時47分
ビズーさん
「立つ」並び、なるほど!大変失礼いたしました。
返句
関が原 歴史に思い 「立つ」並び ><;
投稿: 好好爺 | 2008年8月14日 (木) 18時14分